中野香織
ファッションを含むラグジュアリー領域全般に関し、研究・執筆・講演を行うほか、企業のアドバイザーを務める。日経新聞はじめ多媒体に連載記事執筆。著書に『「イノベーター」で読むアパレル全史』、『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』など多数。3月末、『新ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』(クロスメディア・パブリッシング)を共著にて出版。
万博、ビフォーアフター
1970年に開催された日本万国博覧会は、大阪万博としても知られます。183日間の会期に大阪万博に来場した入場者は延べ6,422万人でした。この数字は、 2010年の上海万博(7,308万人)に抜かれるまで、世界記録を保っていました。誰よりも日本人自身が経済大国としての日本を確認し、自信をつけた万博だったのではないでしょうか。
日本が国際基準でのファッションセンスに「覚醒」したのはこの大阪万博の直前でした。1967年10月18日には世界的人気モデルのツイギーが初来日し、日本でも西洋に少し遅れてミニスカートのブームが起きます。スカート丈が変われば靴やバッグを変え、新しいストッキングやタイツも必要になります。多くの女性を百貨店に走らせるきっかけになったこの日は、今も「ミニスカートの日」という記念日になっています。レナウンの画期的CM「イエイエ」が放送されたのも、まさにこの年、1967年。アパレルは空前の繁栄期を迎え、「いざなぎ景気」を一層、後押しします。
その勢いの延長に、1970年の大阪万博があったのです。
大阪万博の前後で日本人のファッションに対する意識が変わりました。当時、通商産業省(現在の経済産業省)の官僚で大阪万博の総合プロデュースを任されていた堺屋太一は、『地上最大の行事 万国博覧会』(光文社新書、2018年)のなかでこのように書いています。「3月15日に開幕した時、大阪万博を訪れる観客のほとんどは、背広やスーツ、学生服姿というフォーマルな着衣を纏っていた。だが、9月13日に閉幕する頃には、カジュアルウェアが目立つようになっていた」
このように1970年の大阪万博は、日本人のファッションに多大な変化をもたらしました。来るべき2025年の大阪万博は何をもたらすでしょうか?まずは、当時の大阪万博で起きていたファッションの変革を紐解いていきましょう。キーワードは、ユニフォームです。
大阪万博の会場を彩ったのは、来場者をエスコートし、「未来」のファッションに身を包んだガイドたちでした。そんなガイドたちのユニフォームには、世界的にみても当時の最先端の表現が用いられています。それを創り上げた気鋭のスタッフには、その後大きな成功を収めるコシノジュンコ氏や森英恵氏、芦田淳をはじめとする著名なデザイナーも含まれていました。
ユニフォームの意味の変化
その制服ワールドすべてを統括したのは、田中千代でした。日本で最初のデザイナーにして田中千代学園理事長・学園長でもあった、日本ファッション界の最高権威です。1967年に万博協会からデザイン顧問団のひとりとして選出された田中は、同年のモントリオール万国博覧会にも視察に行き、各展示館のみならず食堂や売店、楽屋裏までの美的統一感の必要性を実感します。
その後、統一の美に関する基本方針をまとめあげ、職員、ガードマン、音楽隊、清掃、ビルメンテナンスにいたるまで、大阪万博の表舞台と裏舞台で関わる人全ての制服に関する助言を行いました。協会が最終的に支給した制服を着用した職種は40種類、その人数は3,856人にのぼりました。しかも一人ひとりに対し、冬服一着と夏服一着が支給されるのです。
実際、ユニフォームの意味をすっかり変えてしまったこの万博は、新時代のユニフォームの見本市となりましたが、まさに同じ時期、一般企業もまた、ユニフォームをブランディングの重要な要素とみなして変えつつあったのです。
1970年3月、ボーイング747が羽田空港に初めて到着しましたが、これを契機として、日本航空は客室乗務員や男性乗務員の制服をリニューアルし、若々しいJALとしてPRしています。客室乗務員はネイビーのミニドレス。当時流行のシルエットです。こうしたファッショナブルな制服が、企業のイメージを魅力的に変えることに貢献するとともに、リクルートにも影響を与えます。制服のセンスは企業文化の延長にあります。「あの制服が着たいからこの企業に就職したい」という企業選びのひとつの動機にもなりました。
トレンドを先取りしたコシノジュンコ氏のデザイン
さて、この万博で名を上げたデザイナーの筆頭が、万博準備期間の1967年に生活産業館のデザイナーとして選ばれたコシノジュンコ氏です。デザイナーのなかでも最年少の28歳でした。同館のガイドの夏の制服は、襟付き、肩章つきの白いミニドレスに大きな長いネイビーのネクタイ。ネイビーに白線の入ったハイソックスを合わせます。ネクタイにはオレンジ色のパビリオンのマークがあしらわれ、強いインパクトを与えます。
ちなみに大阪万博は春から秋にかけて開催されたので、季節に合わせてユニフォームも代わり、合服やコートも用意されました。合服は白いパンタロン、長袖部分と襟がネイビーとなり、これもまたみずみずしくクールです。
コシノ氏はペプシ館やタカラ・ビューティリオンの制服も手掛けます。とりわけタカラ・ビューティリオンの合服は黄色の長袖ニットに同色のパンツ、その上にミニスカートを重ねるという、当時としてはかなり斬新なスタイルでした。また、つばの長い帽子がアクセントになっており、気候に応じて黄色いロングコートを羽織ることもできるようになっています。彼女は明らかに世界のトレンドを意識しており、未来的なミニからフォークロア調のマキシ(くるぶし丈のスカート)、ユニセックス風パンツスタイルにいたるまで、1970年代前半の流行を先取りして表現しています。
『日本万博博覧会 パビリオン制服図鑑』(河出書房新社、2010年)によれば、コシノ氏は「従来の事務服的、作業服的なイメージから脱却し、働いているときの服にも夢があっていい」、とユニフォームに強いメッセージをこめました。
コシノ氏のほかにも、森英恵氏、芦田淳、中村乃武夫、石津謙介(メンズ)、平田暁夫(帽子)といった著名なデザイナーが参画しているほか、高島屋主任デザイナーの谷口義子氏、三越専属デザイナーのアメリ―・ディジョルジョ氏、大丸本部デザイン室チーフの阿部コオイチ氏といった、当時百貨店に所属していたデザイナーたちも大阪万博の制服を手掛けました。
さらに日本ユニフォームセンターのスペシャリストたちも加わり、1970年の最高・最先端を結集した華々しいクリエーションが見られました。2010年の3月には当時の制服を復元したファッションショーが開催されましたが、レトロな印象はそのままに完成度が極めて高く、見ているだけで気持ちが高揚します。
大阪万博を契機に日本のファッションが動き始めた
大阪万博後、日本のファッションシーンも変わりました。ユニフォームの世界を筆頭にファッションへの関心が否応なく高まったタイミングで、『an an』が創刊されます。大阪万博の制服の成功により、ファッションデザイナーが社会的ステータスを獲得したのです。1971年には高田賢三、山本寛斎、三宅一生氏といったデザイナーたちが続々海外でも活躍しはじめ、グッチ、エルメス、ロエベ、フェラガモといった海外ブランド熱も高まります。経済的成長を背景に大阪万博で自信をつけた日本人は、その後、一気に「国際基準の洗練」に向かって歩みを進めることになります。
堺屋太一の著書によれば、大阪万博のコンセプトは、実は「規格大量生産社会となった日本を見せよう」というものでした。会場には自動車やテレビのマルチスクリーンが「規格大量生産品」を代表する製品として輝かしくアピールされました。実際、1969年には日本のテレビ受信台数は1,269万台に上り、世界第一位となっていました。各パビリオンの制服のシルエットの多くは幾何学なAラインですが、これは大量生産可能な既製服に最適なシルエットでもあります。
「統一の美」から不揃いの豊かさの制服へ
「統一の美」が重視され、同じユニフォームで整列することの美しさが称揚された1970年の大阪万博から半世紀。大量生産の時代は限界を迎え、統一された規格よりもむしろ多様性と稀少性の価値が重視される時代となる2025年に、万博が開催されます。そんな時代に美しく映えるのは、同一規格に則ったおそろいの制服よりもむしろ、ゆるやかな美のルールのなかに、 一人ひとりの個性を自由に表現できる余地が残された、不揃いの豊かさがある制服なのかもしれません。いつの時代であれ、時代の精神を体現したファッションは、その時代に生きる「人」を輝かせ、その美しさの記憶を永遠に後世に残すのではないでしょうか。
こうちゃん
2025年の大阪・関西万博のファッションにも注目です!