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「くろよん」(黒部ダム・黒部川第四発電所の総称)は、2023年、竣工60周年を迎えました。黒部ダムは年間約100万人が訪れる観光地となりましたが、かつての黒部峡谷は人を寄せつけない秘境。ここには、電源開発に果敢に挑戦しつづけた多くの人の知恵と努力によって、不可能といわれたダム建設を実現した歴史が刻まれています。そんな物語からみえる黒部ダムの魅力を、前後編にわたってお届けします。

北アルプスの豊かな自然に囲まれた、日本最大級のダム

画像: 北アルプスの豊かな自然に囲まれた、日本最大級のダム

黒部ダムは、富山県と長野県の県境にある黒部川の最上流にあり、総貯水量は約2億m³。また、ここから約10km下流にある黒部川第四発電所での年間発電量は約10億kWhで、一般家庭約30万世帯分に相当する電力を生み出します。日本最大級の規模を誇る巨大ダムはどのようにして建設されたのでしょうか。前編ではその歴史をご紹介します。

くろよん建設は「世紀の大工事」だった

第二次世界大戦後、関西地方では急速な経済復興に伴って深刻な電力不足が起こり、大きな社会問題になっていました。1955年頃から大きな出力の火力発電所が登場しましたが、すばやい出力調整ができず、変動する需給に瞬時に対応できる大規模な水力発電施設が必要でした。

そこで計画されたのが、くろよん建設。立山連峰と白馬連峰、3000m級の山々に囲まれた黒部峡谷の奥地に高さ186mのダムを建てるという壮大なプロジェクトは、「世紀の大工事」と呼ばれました。急峻な地形や厳しい自然条件など、着工前から予想された数々の困難。それでも、関西電力は社運をかけてこの難工事に立ち向かったのです。

画像: 当時の黒部峡谷は、“前人未踏、未開の地”

当時の黒部峡谷は、“前人未踏、未開の地”

厳しい自然を前に、困難を極めたトンネル工事

1956年、まず着工したのが、大町トンネル(現在の関電トンネル)の工事です。長野県大町市側から赤沢岳の中腹を貫く資材輸送ルートの開通が急がれており、厳冬中も休まず続けられた工事は順調に進んでいました。

画像: 当時の建設事務所の様子

当時の建設事務所の様子

ところが1957年5月、入口から約1,600mの地点で破砕帯(はさいたい)と呼ばれる、岩盤の中で岩が細かく割れ地下水を溜め込んだ軟弱な地層に遭遇してしまいました。最大毎秒660リットルもの地下水と大量の土砂が噴き出し、工事は停滞。7月には工事の続行が不可能となってしまったのです。

画像: 破砕帯との遭遇、大量の土砂と水が噴き出す

破砕帯との遭遇、大量の土砂と水が噴き出す

我が国の土木関連の知恵と経験を結集すること、実に7ヶ月。決して諦めることなく、全身全霊をかけて立ち向かった苦闘の末に、距離わずか80メートルの破砕帯をようやく突破することができました。その模様は、木本正次氏の小説「黒部の太陽」に描かれており、石原裕次郎氏が主演した映画や舞台、テレビドラマにもなりました。

画像: 大町トンネルの貫通時、万歳三唱をする作業員たち

大町トンネルの貫通時、万歳三唱をする作業員たち

難所を超え、驚異的なスピードでダムを建設

1958年5月の大町トンネル全通後には、大型トラックによる資機材の輸送が開始され、一気に工事のスピードが加速しました。

6月にはダム本体工事が本格化、1959年9月からはコンクリートの打設が開始されました。容量9m³のバケットにいれたコンクリートを、黒部川の両岸から2台のケーブルクレーンで吊り上げて、堅固な鉄製型枠でブロック状に仕切られたダム本体へと運んでいく地道な作業。最高打設日にはなんと1日960回も運搬され、月間の打設量は14万7,314m³という当時の日本新記録を樹立しました。

ダム建設地点には強固な岩盤があったため、重力式(貯水池からの水圧をダムの重量で支える構造)に比べて必要なコンクリート量が少なく、建設工期の短縮や経済性に優れるアーチ式(水圧をダムの両側や岩盤に分散させる構造)のダムとなりました。

画像: 黒部ダムに残る、コンクリートバケット

黒部ダムに残る、コンクリートバケット

現在の黒部ダムには、建設工事で現場を走っていた20t以上の重さのあるダンプカーや人々の足跡が刻まれた「ワダチモニュメント」が置かれています。当時、力強く進められた工事の空気感を色濃く残しています。

画像: ワダチモニュメント

ワダチモニュメント

7年の歳月、延べ1000万人の労働力によって竣工したくろよん

1960年10月にはダムの湛水を、翌年1月には1・2号機の発電を開始。一部営業運転をしながら、ダム建設は進められました。

画像: ダムが形づくられていく様子は、建設史に残されています。

ダムが形づくられていく様子は、建設史に残されています。

そして、1963年6月5日、7年の歳月と513億円の工費、延べ1000万人の労働力によってついにくろよんが竣工しました。

建設史には、竣工式の様子が次のように記されています。

この日、黒部峡谷は霧雨にけむっていたが、その中に太田垣会長、芦原社長その他役員および工事関係者多数が参列し、ダムの幅8mの道路上に張られた紅白のテープを、太田垣会長が自ら切断した。その瞬間数百人の人々の万才の声が谷間にこだまし、「くろよん」にちなむ940発の花火が、とどろき渡った。

多くの人々がくろよんの完成を待ち望み、歓喜したことは、言うまでもありません。くろよんは、関西の電力不足を救い、日本の経済成長を助けたのです。

画像: 竣工式の様子

竣工式の様子

くろよん建設においては、171名が殉職されました。殉職者への哀悼の意を表し、その功績を永く伝えるため、黒部ダムの傍らには慰霊碑が建てられています。

画像: 7年の歳月、延べ1000万人の労働力によって竣工したくろよん

くろよん建設の裏にあった、濃密な歴史

関西地方に安定した電力を供給している黒部川第四発電所、観光地としても親しまれている黒部ダム。実は、多くの人が知恵を絞り、社運をかけて建設された歴史があるのです。後編では、歴史を踏まえて、見どころ満載の黒部ダムをガイドしていきます。

画像: 【60周年記念】くろよんヒストリーを徹底解明!(前編)

けいちゃん

前編では「くろよん建設の歴史」を振り返りました。
後編では、そんな「くろよん」に訪れた際の楽しみ方をご紹介しているので、ぜひチェックしてみてください!

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